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2012年10月29日 (月)

全真相告白!<怪物>過去に眠っていた「救いようのない少年時代」

獄中ブログも6年を過ぎましたが、投稿者のなかには小生と小田島の関係を知らない人も多いと思いますので、小生が小田島について初めて記事にした原稿を紹介したいと思います。掲載誌は「実話ナックルズ・2007年1月号です。

 千葉地方裁判所で1年間に扱う刑事事件は3千件を超えるが、傍聴人が多数のため整理券を交付する裁判は10数件に過ぎない。9月12日、この日は残暑も一段落して、小雨模様の天気であったが地裁の仮庁舎の入口から、傘の流れが200メートルも続いていた。

 この日、千葉地裁で開かれたのは『マブチモーター社長宅強盗放火殺害事件』小田島鐵男(てつお)の初公判であった。

 私も、この傘の列に並んで午後1時15分に開廷予定の裁判を膨張するため、整理券の配布を待っていた。しかし、抽選ははずれてしまった。地裁の301号法廷は最も広い法廷なのだが、一般傍聴人席は26席しか確保されていなかった。法廷の入口に告示されていた事件名は『マブチモーター事件』とあり、小田島は「住居不法侵入、強盗殺人、現住建造物放火」など七つの罪名で起訴されていた。

 小田島鐵男に私が関心を持った理由は、事件もさることながら私と同世代の男(筆者65歳、小田島63歳)の犯罪の原点がどこに隠されているか、真実を知りたかったからである。

 そのためにはまず彼に会うことが必要と考えて、手紙を出すことで接触を図ってきた。そして、彼から「会ってもいい」という最初の返事が来たのは、5通目の手紙を出してから3ヵ月後の9月のことであった。

 面会日を指定したのは小田島で、その日は初公判から10日すぎた9月22日のことである。私は接見禁止が解けた小田島を千葉刑務所に初めて訪ねた。彼は群馬で起こした窃盗事件の余罪受刑者として4年の刑を執行され、懲役刑を務めていた。

 面会室は広さ1坪ほどの空間で、椅子に座った私の目の前は透明のアクリル版で仕切られていた。2分と待たないうちに面会室の反対側のスチール製のドアが外側に開かれ、看守部長に付き添われた小田島が入室してきた。服装はブルーの半袖ジャンパーにグレーのズボン。足はゴム製のサンダル履きであった。私は立ち上がり小田島に即頭した。目線の位置から推し量ると彼の身長は1メートル70センチほどか。前頭部が禿げた坊主頭を下げると、彼は私の目の前に座った。20センチの距離で見る縁なしの眼鏡をかけた表情は暗く沈んで見えた。

 私は「お元気ですか」と、小田島にはなしかけた。彼は「ええ、元気でやってます」と私を凝視しながら応えた。私の目の前の男は会話に無駄な語彙がなく、その上、論理的な話し方をした。そして態度は落ち着いていて冷静な受け応えをする。私は面会するまで「見知らぬ人間を殺し強盗放火した冷酷な犯罪者」小田島のイメージをあれこれ想像していたが、会話を交わしてみて一瞬、不思議な感慨に囚われた。なぜならイメージとはそぐわない小田島の「頭の良さ」を感じたからである。

 面会からほどなくして小田島から第2信が届いた。そこには<はじめに、死刑判決ありきの裁判ですから、共に処刑される共犯者(筆者注・守田克美55歳)とは、法廷で悪様に言い合う事は避けたいと思いまして、共犯者の調書を基にした起訴状事実を、昨日の第一回公判で全て認めた次第です>と、死刑判決を覚悟した心境が綴られていた。私は小田島の「死刑覚悟」の気持ちを再確認するため2回目の面会に出向いたが、そのときは子供時代の話に終始してしまった。と、いっても、15分という限られた面会時間のなかでは言葉がたりず、彼の生い立ちについてはあらためて手紙で知らせてもらうことになった。

 第3信も、発信の制限である7枚の便箋に几帳面で奇麗な文字が埋められていた。文中に<この山の公園は起伏に富んだ桜のきれいな所で、死ぬまでにもう一度行ってみたいと希い、よく夢を見ることがあります(筆者注※手紙には地図も添えられている、P20写真参照)>と書かれた箇所があった。小田島3歳のときの記憶で、彼は1946年秋に「桜のきれいな山の公園」がある北海道紋別郡滝上(たきのうえ)村の祖父母の家に引き取られていた。私は小田島の脳裏に刻まれた、その場所を訪ねて見ることにした。

 2006年10月下旬、オホーツク海に面した紋別市。冬は流氷観光で賑わう人口2万6千人余りのこの街も、晩秋のこの季節は疎らで天候は晴れたり、曇ったりの不安定な天気が続くという。紋別市と紋別郡滝上町は車で約40分の距離。途中に、1973年5月に閉山になった、住友鉱山が経営していた鴻之舞金山跡がある。1950年代、全盛の鴻之舞金山で働く労働者の子供たちは小学生が「鴻之舞小学校」、中学生が「鴻之舞中学校」に通学しており、小田島も鴻之舞小学校を卒業したという。

 彼の第3信には鴻之舞時代が次のように書かれていた。

 <1956年13才、3月鴻之舞小学校卒業、4月鴻之舞中学校入学(中略)、小学5年の時に鴻之舞に移り、中学2年秋に母に引き取られるまでの約3年余りの鴻之舞での生活が、物心ついてから覚えているなかで、唯一、落ち着いた家庭的な日々だったように記憶している>

 私は念のため市の教育委員会で小学校卒業当時の記録を調べてみた。ガリ版刷りの学籍簿には「2組120人中5番。成績優」とあり、卒業年度は1956年3月。名前は『畠山鐵男』昭和18年4月17日生れ。保護者の欄には「父畠山吉之助、母カネ」とあった。小田島性については追々、明かしてゆくが「畠山」の性は実母フサの実家で、小田島は出生直前に実父が亡くなったため、祖父に当たる畠山吉之助の次男として入籍。実母のフサとは戸籍上は弟妹の関係になっていた。

 小田島から旧姓が「畠山」と知らされていたので卒業記録を探すことが出来たが、小田島性で探しては手間取ってしまっただろう。「鐵男」の名は卒業生の中に3人あった。33年前に鴻之舞小中学校は廃校になった。私は滝上町に向かう途中、金山の中心地になっていた元町に作られていた学校跡に寄ってみた。そこには小田島も友達と一緒に遊んだであろう、グランドの敷地が残されていた。そして「学舎の里」と記毫された石碑が建てられていた。

 私は一刻、グランド跡に佇んで畠山鐵男の子供時代に思いを馳せていた。彼は<鴻之舞の3年余りの生活が唯一、家庭的な日々であった>と手紙に記している。半世紀前の鐵男は学年で120人中5番の成績、身長は同級生よりも頭ひとつ抜いていたというから、腕力もある〝ガキ大将〟であったのでは……。当時の子供の遊びは〝チャンバラごっこ〟が流行っていた。〝嵐寛(あらかん)の鞍馬天狗〟の映画が人気で、紋別市よりも早くこの町の劇場で公開されていたという。〝チャンバラごっこ〟の主役は、なんといっても鞍馬天狗。ガキ大将の鐵男は鞍馬天狗になって同級生の英雄になっていたのではあるまいか。私はそんな情景を想像した。辺りは森閑として木々の間を吹き抜ける風の音だけが谺(こだま)していた。最盛時、この小学校には千人からの子供たちが学んでいたという。鐵男にとって、いつまでも、思い出に残る楽しい小、中学校時代の生活であったろう。

 私は鐵男が半世紀前に楽しく暮らしたであろう学校跡の原風景を頭に叩き込み、次の目的地滝上町に向かった。道道157号線はガラガラにすいていた。人口3千4百人余りのこの町はむかし、林業で栄えたが渚滑線が廃線になってからは、寂れる一方であった。

 町の観光資源といえば第一に「滝上公園」の芝桜がある。小田島が手紙に<この山の公園は起伏に富んだ桜のきれいなところ…>と書いてあるように、「みかん箱一杯」の苗木を植えたことに始まり、現在では10万平米の大群落に芝桜は成長していた。シーズンの5月上旬から6月上旬までの1ヵ月の間に、数万人の観桜客が訪れるという。

 鐵男がこの地で暮らしたのは1946年秋から1年余りの期間である。当時は滝上村で町制は翌年に施行され、滝上町となっている。

 <この年の秋、滝の上町に新築した祖父母の実家に引き取られた。道路に面したこの家の裏手に、祖母の母親(ひいばあちゃん、お大師のおばあさんと呼ばれて、6畳間の3分の1を占める仏壇に、人間よりも大きな弘法大師の坐像(銅仏像)を置き近所の人がお参りに来ていた)の家があり、更にその裏に川が流れていた。川の流れで街が2分され、街はずれの箇所に滝がありその滝を利用した小さな発電所があり、滝つぼの上に橋が架かっていた。滝の上流に街があるから、滝の上町と名がついた由です>

 これは鐵男が3、4歳のころ生活していた街の様子を記したものだが、現在でも街はサクルー川と渚滑川で2分されていて、鐵男が生活していた曾祖母の家の裏の川は「サクルー川」。そして〝滝上発電所や白亜の滝、滝つぼの上にはRC造りの「滝見橋」〟が、架かっていた。鐵男の記憶は確かであった。幼少の頃の記憶がこれだけ鮮明に残っていることに、私は驚いてしまった。

 そしてその記憶の確かさはまた、別の幼児体験として忘れ難い傷を心に負っていた。

 <1947年4歳、滝の上の実家に里帰りしていた母が祖母と喧嘩して(妻子がいる太田と交際を続け、妊娠したことが原因?)私を連れて家の裏を流れる川(筆者注・サクルー川)に入水自殺を図ったが、母の弟に発見され未遂膝まで川に入った所で私は母の手を振り切って逃げたことを覚えている>

 これは鐵男4歳の時である。彼ならばその記憶が鮮明であっても不思議ではあるまい。

 鐵男はあやうく母親の入水自殺の道づれにされるところであったが、水枯れでサクルー川の水が減っていたため必死になって母親の手を振り切ったので死なずにすんでいた。4歳の記憶は母親の手を振り切った右手にも、しっかりと残されていたのだろう。と、同時に母親に対する憎悪感情は鐵男の心に底に深く沈殿していった。そして、その憎悪感が決定的になるのはこれからもう少し先のことである。

 鐵男が滝上町で地元の「滝上小学校」に入学したのは1950年、7歳の時であった。しかし、ここでの生活も長つづきせず年末には、滝上町から100キロ離れた上川郡愛別村に引っ越している。その間、学校に通ったのは8ヵ月たらずであった。

 <年末に愛別町に開店した家に引き取られ祖父母、S(母の妹)、母、私、妹と一緒の生活が始まった。開店していた料理店・新橋は祖母と母が中心となり、他に中居が3人いて切盛りしていた>

 鐵男が滝上町から引っ越した愛別村は、1961年に町制を施行し、現在は愛別町と名前を変えている。層雲峡まで60キロ、旭川まで40キロの場所にあり、滝上町からは100キロ以上も離れていた。交通手段に何を使ったのかまでは手紙に記されてなかったが、1950年代の北海道の僻地では、自動車など数えるしか使われていなかったであろう。交通手段は「馬橇(ばそり)」が一般的であった。現在でも滝上町から愛別町に出るには道道61号線と101号線を利用するのが最短距離だが、途中には上紋峠の難所が控えている。国道は完全細腕は知りやすいが、長い峠越えはカーブの連続で走るのに神経を使う。この区間、およそ3時間の行程であった。

 愛別町は単純な街区で形成されていた。石北線の無人駅「愛別」を背にして垂直に延びる1本道がメインストリート、直進し石狩川に架かる「愛別橋」を渡ると、その先が国道39号線。さらに国道を横断して一本道(道道101号線)を西に進むと街の中心地に入ってゆく。鐵男は、この町で生活していた当時の不運な生活環境についても記していた。

 <1951年、8歳。店(新橋)を開店していた母や妹と一緒の暮らしが始まって1年くらい経った頃、祖母と太田(母親の愛人)が不仲となり、経営から手を引くことになって、母と妹は太田に連れられて家を出ることになった。その時は雪の降る日で、私も一緒に連れて行ってもらえると思って後を追って行ったが、私は、愛別の駅に残され、改札口で泣いていたら、祖母が迎えに来て、角巻に包まれ祖母に背負われて帰る途中、あんな親なんかいらない。2度と母と呼ぶものか、と思った>

 鐵男は駅に置き去りにされてしまった。これで、母親に裏切られたのは2度目になった。その時の「2度と母と呼ぶものか」という感情は徹底的に母親を憎悪する心情であったという。

 幼児体験が犯罪と結びつく可能性は高いのだろうか。私はその答えを知らないが、少なくとも鐵男が体験してきた、親の都合で自殺未遂の地獄の縁を覗かされ、次には〝捨てられる〟という悲哀。その負の遺産が後年、鐵男を犯罪の道にひた走らせた原因のひとつであったのかも知れない。

 鐵男の記憶力はこの街についてもしっかりしていたおかげですぐに新橋の跡地にたどり着くことができた。役場や消防署などもある街の中心地の一角に農協の建物があり、その隣がプレハブ造りの事務所になっている。

 「新橋? もう、50年も昔のことだけどそのプレハブ事務所の土地にあったんだよ。店の前は朝から馬橇や馬ッ子が連なって新橋は繁盛していたよ」こう語るのはタバコ屋のお婆さんで、今年86歳になるという。

 新橋は繁盛していた。どんな形態の店であったのか。

 「なんちゅうか、働いていた中居もゼニですぐ転ぶから、小料理屋といっても、売春が看板の店だった。それで、博労や伐採の人足で店は繁盛していたわけさ」

 愛別町について、さらに鐵男の手紙には次のような記憶が記されていた。

 <愛別町の祖母の家(新橋)の斜め前に木村商店があり、ここに男の同級生(?)がいた。あと近所の銭湯の娘(同級生で、片目が白く濁り不自由な女の子、大柄で色白の美人だった)らと隠れんぼや鬼ごっこをして遊んだ事を想い出す>

 愛別の街はむかしからの住民が多かった。タバコ屋のお婆さんが教えてくれた人物に理髪店の女主人がいた。

 最初はこちらの質問に警戒してか、なかなか、話をしてくれなかった。お婆さんの話によると女主人は『歳は62歳で、愛別小学校を卒業』しているという。私は、彼女に畠山鐵男の取材で来ている事を正直に告げた。すると彼女は少し、心を開いてくれた。

 『畠山君のことは新聞やTV放送で知りましたが、最初は『小田島鐵男』の名前が出ていたので分からなかった。そのうち、週刊誌等で顔写真もでたりして、やっぱ同級生の「てっちゃん」に間違いないと確信したんです」

 そして彼女は「てっちゃん、今、どうしているんですか」と、質問してきた。私は、近況を彼女に伝えた。「そうですか。いずれは、死刑ですか」。ここで、彼女は沈鬱な表情になってしまった。私は話題を変えて近所のことを聞いてみた。

 「木村商店(酒屋)の長男ね、孝さんは60前に病気で亡くなったわよ。それと、松の湯の中本の君ちゃん、彼女も20代に肥満が原因で亡くなったわ。私が覚えているてっちゃん、彼は勉強も良くできて本好きの子供だった。私の父がこの店で現役のころ、彼はよく店に来ていて雑誌や本を読んでいたわね。父が、てっちゃんを可愛がっていたんです。てっちゃんは、新橋にお母さんとおばあちゃん、それと、妹さんの4人で暮らしていたみたいですが、夜になってもなかなか、家には帰らなかったみたい。

 私も子供心に薄々は感じていたんですが、、お店には〝特殊な女性〟がいて、それで家に帰るのが嫌だったんだと思うんです。父は、てっちゃんのことを『この子は本好きだし、勉強もできる子だから将来、きっと、偉い人物になる』なんて誉めてました」

 愛別で聞かされた鐵男の少年時代も、評判はすこぶるよかった。そして、将来は「偉い人物」になると、彼女の父親は誉めていたという。

 「小学校は5年生で一緒でした。そのうち、いつの間にか学校に来なくなってしまったんで,先生にてっちゃんのことを聞いたことがあるんです。先生は『鐵男は転校した』とそれだけ聞かせてくれました。そのうち、私も、てっちゃんのことは忘れてしまいましたが、あの事件報道のお陰で畠山鐵男君のことを思い出すことが出来たんです。人の人生なんて、本当、わからないものですね。あの、頭の良かったてっちゃんが殺人犯で死刑になるなんて、家庭環境が悪かったんですかね?」

 彼女は最後に小田島へのメッセージを私に託した。それは「生きているかぎり、最期まで一生懸命に生きてください。そして、愛別の子供時代を思い出して下さい」というものであった。再び、幼少期を過ごした滝上町。北見市に生まれた鐵男は、親の都合で道東の陸地をさまよい続けてきた。小学校は滝上小学校に入学し,3年生の時に愛別小学校に転校。そこも5年生で辞めて次に転校したのが元の滝上小学校であった。

 だが、今度は祖父母の家ではなく母親の姉ツネの居宅であった。

 7人も子供のいるツネの家の生活状態は極貧を極めていた。

 <家は台所の土間の他、板床の8畳位の2部屋だけ。食事は大根、カボチャ、御所芋(ジャガイモのこと)に水団(スイトン)を入れた雑炊が主だったが、その雑炊も私と妹はいつも水団の割合が少なく、イモもカボチャも他の子供たちより小さいものが与えられるのが常だった。昼は塩茹での拳より小さなイモが2個のことが多かった。学校に弁当を持っていけなくて、下校の途中空腹で、道に落ちているイモや、畑の大根、人参を抜き盗り生で食べたりしていた>

 この記憶は1953年の10歳ころのものである。私にも戦後の食糧難の記憶は残っている。水団や薩摩芋を毎日食べさせられ、たまに食卓に上がる『麦飯』といっても、麦の量が多い『麦飯』をご馳走のように食べた舌の記憶である。小田島は、私よりも3年遅い北海道の僻村での飢餓体験を書いていた。これだけ詳しく食べ物のことを覚えているのは〝空きっ腹〟の空腹感が身体に染み込んでいるからであろう。鐵男の滝上町での極貧生活は1年ほど続くが11歳になった時、突然、母親が迎えに来て十勝の池田町の家に連れていかれた。そこには母親と20歳も歳の離れた同棲相手も住んでいた。だが、池田での母子の生活も滝上町のときと、さほど変るものではなかった。

 そしてなんと池田でも再び母親は生活の苦しさから逃れるために鐵男と妹を利根川の橋の上に連れて行き、投身自殺を図ろうとした。しかし鐵男が嫌がって逃げたため、未遂に終わっている。そして数日後にまた母親は妹と2人で睡眠薬自殺を図った。だが、発見が早かったので2人は命を取りとめた。これで、鐵男は母親の都合2度目の心中に追い込まれたわけだ。池田での生活は短期間であったため、学校には通っていない。そしてこの心中未遂事件を知った祖母は、鐵男を引き取って長男が勤める鴻之舞金山の「福祉会館」の管理人として働くことになった。小学校も5年編入が決まって再入学したのが前出の鴻之舞小学校であった。

 鐵男の小学校時代はそれこそ、出たり入ったりの繰り返しであった。先述したように鐵男にとって鴻之舞の3年余りの生活は、心が最も安らぐ時代であったというのは、彼のこんな足跡を辿ってみてその真意が理解できた。

ところで畠山の家系だが、本人が書いてくれた系図(P21上段参照)は次のようなものであった。実父は鐵男が産まれる直前に病死。その後、実母は再婚することなく2人の男と同棲し妊娠、異父弟妹が生まれるがこの2人の弟妹は鐵男とは血の繋がりがなかった。

 小田島はこの2人の弟妹とも現在は音信不通で〝天涯孤独の身〟だと話し手いたが、実はたった1人、血の繋がった子どもがいた。それは、群馬県下で窃盗を繰り返していたころ東京・池袋で知り合ったフィリピンパブで働く女性との間にできた男の子である。子供の名は「Toby(トビー)」。トビーは現在、母親とフィリピンで生活しており1歳4ヵ月に成長していた。面会のときも、小田島は血を分けた子供のことをしきりに気にしていた。そして子どものことを手紙に書いていた。

 <私に残された時間は、あまり長くはありませんが、この世に生きている的なダメージを何回も受けていただけに、子どもを思う気持ちは人一倍強いといえまいか。

 今号は人間が成長してゆく上で、幼少年期に体験した〝親の愛情や温もりのある家庭環境〟が、如何にその後の人生に影響を与えるものなのかという、そのプロセスを小田島鐵男の幼少年時代に求めて私は、彼の過去を追跡してきた。そして、モンスターに成長してしまった小田島の行動原理を解き明かすヒントは「畠山鐵男」時代に遡らなければ得られないと、私は確信した。

 取材を終えたのちの11月上旬、私は小田島に面会して取材の結果を報告した。私の話を黙って聞いていた小田島は理髪店の女主人のメッセージに強く心を打たれたようで、目頭が曇っていた。そして「本当にご苦労様でした」と、即頭した。次いで小田島は判決の予想を遅くとも来春と語った。

 一審判決は「死刑判決ありきの裁判である。私の取材は、これからも続いて行くことになる。(本文敬称略)

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コメント

<1947年4歳、滝の上の実家に里帰りしていた母が祖母と喧嘩して(妻子がいる太田と交際を続け、妊娠したことが原因?)私を連れて家の裏を流れる川(筆者注・サクルー川)に入水自殺を図ったが、母の弟に発見され未遂膝まで川に入った所で私は母の手を振り切って逃げたことを覚えている>

多分この出来事がなかったら、このような悪鬼にはならなかったんだろうな。

と思っております。

強烈なトラウマとして小田島の心に刻印されているんだと思います。

投稿: 土建屋44才 | 2012年11月22日 (木) 22時14分

凄いおはずかしいです。すみません!

投稿: けい | 2012年11月20日 (火) 23時50分

けいさん…小生(しょうせい)の意味を調べるといいですよ(^_^;)

投稿: | 2012年11月14日 (水) 19時45分

鳩山邦夫さんに法務大臣をやって欲しくなりました。

投稿: | 2012年11月14日 (水) 00時53分

小生さん?と小田島の関係は知りませんでした!斎藤さんだけがずっと小田島の支援をしているものだと…

投稿: けい | 2012年11月13日 (火) 01時29分

私は死刑賛成の者です。 ただ死刑反対を唱えている方ではなく実際にボランティア等で活動している方々。養子縁組をして面会や差し入れを続けている方々。どの様な経緯があって見ず知らずの死刑囚を支えようと思ったのかわかりませんが多かれ少なかれこの様な方々の力もあって更生していく死刑囚もいるんだなぁと色々調べていくうちにそう思うようになりました。私は死刑賛成に変わりはありませんが反対派として活動している方の話も聞いてみたいと思います。きっとそのような方々もこのブログを読んでいると思うので。賛成派の中にも反対派を頭から 否定する人もいますが反対派の意見を聞いてみたいと思う人も多いと思うのでコメントしていただければと思います。

投稿: | 2012年11月12日 (月) 17時48分

どんな生い立ちだろうと小田島のおかした罪はひどすぎるが…今年の執行はなさそうだな。

投稿: | 2012年11月12日 (月) 03時19分

小田島さんの生い立ちは本当に不幸な環境そのものです。
小田島さんは確かに罪を犯してしまいました。
でも、こういった環境の中で育ちながら69歳まで生きてこられたのだから本当に立派!
私などこんな環境の中で育っていたら69歳どころか、成人すらできなかっただろうから。

投稿: | 2012年11月11日 (日) 22時17分

どんな親に育てられ教育をうけても教育なんて最後のとこは子供自身でやるものだと思う。 死刑になるのも覚悟してやった犯罪だと思うし、死刑に対し、そんな恐怖はなさそう。

投稿: | 2012年11月11日 (日) 00時20分

最近の、バカがきどもら、パソコンで、ゲームばっかりやっているから、頭腐っているバカがおおすぎる。そとにでて、コミュニケーション能力あげろ!悪いことしたなら、せめてすいませんの、一言ぐらい言える人間に、なれ!

投稿: | 2012年11月10日 (土) 21時40分

犯罪を犯す者は家庭が貧しかったり辛い幼少期を過ごしている人が多い傾向にあると思う。恵まれた環境で育った死刑囚なんて極僅か。大抵が再犯や無期懲役中の仮釈放中での犯行が多く見られる。長期に渡って服役してその後まともな仕事に就けるわけでもない。何十年刑務所で働いて出所時にお金をもらっても雀の涙。服役が長いと身元引受人も亡くなっているケースが多い。それに犯行を犯した時点で絶縁される者もいるだろう。無期懲役で三十年刑務所にいて出所したら浦島太郎状態。変わりきった世の中で犯罪者を庇うわけではないが再犯に走るのもわかる気がする。自分が罪を悔いてまっとうに生きようとしても結局犯罪者に向けられる目は冷たい。長年服役していて出所時に支えてくれる人がいなければ更生なんて無理だと思う。普通の人間でも一人で生きて行くのは難しい。更生した人のほとんどは周りのサポートもよかったのであろう。刑務所は更生する為の場所と言うのは嘘だと犯罪のニュースを聞くたび思う。

投稿: | 2012年11月10日 (土) 17時29分

ここ、最近知りました。
事実を事実のまま伝える、その姿勢がとてもよいです。
その日まで、ただ淡々と、レポートしてほしい。
楽しみにしてます。

ただ、コメント欄の、程度の低い、稚拙な言い争いが残念。
小田島死刑囚は頭がよさそうだから、読んだら失笑されますよ。


投稿: タモ | 2012年11月 9日 (金) 17時05分

読んでいてかわいそうな家庭環境に泣けてきました。小田島の母親ってひどい人だなと…。

投稿: | 2012年11月 8日 (木) 21時27分

何にも使えない人はどの様に処遇するのですか?又、死刑かなくても大量殺人の様な事件は起きていますよ。環境だけが原因ではないですよ。では、どうしますか?

投稿: | 2012年11月 8日 (木) 19時49分

死刑囚の味方をするわけではないですが、貧しい家庭に地域で、手を差し延べる考えには、大賛成です。私も永山則夫について、コメントしたのですが、載りませんでした。人の中傷も、していないコメなのに、訳がわかりません。基準ってなんなのですか?

投稿: 梅干し | 2012年11月 8日 (木) 17時09分

他人の事はお構い無しで自分の事しか考えない、かたよった性格は母親からの遺伝なんだと思いました。お金欲しさに何人もの殺人を犯すような小田島や他死刑囚達は私達が思っているほど執行の恐怖はないんじゃないかと思います。死刑になりたくて殺人を犯す者も出てきている始末です。人権問題になりますが、犯罪心理や医療の研究材料に使えないでしょうか?世の中死刑があっても酷い事件が起こっています。後無期と死刑の違いもいまいち納得できません。これは酷いと思う殺人犯も無期懲役にはたくさんいます。

投稿: | 2012年11月 8日 (木) 02時30分

普通の暖かな家庭に育っていれば犯罪に走らなかった、しかし薄幸の家庭に育ったばかりに犯罪に走ってしまったといったケースもあるかと思います。
永山則夫さん、彼は、幼少期に親に捨てられ、極貧生活の中で育った無知から犯罪に走ってしまいました。
しかし、立派に更生「自分と同じような子供が生まれないよう、無知から子どもを救いたい」と考え、ペルーに「永山子ども基金」を設立しました。
ペルーの人曰く「永山は過ちを犯したが、困難を乗り越え、変わった。もし、永山が子どもの時、子供の労働組合があったら、犯罪を犯すにすんだかもしれない」

薄幸の家庭、不幸な家庭の子どもがいるのなら、社会が、地域が支援しなければなりません。

投稿: | 2012年11月 7日 (水) 23時19分

何を言おうが死刑は絶対必要だと思う。

環境に恵まれて裕福に育った死刑囚も居るし、環境に恵まれてなくても立派に(大成し裕福なって意味じゃ無く)生活してる人も居る。
立派な大学を出てエリート街道を歩んでも自分勝手に私利私欲を満たす為に殺人を犯す鬼畜も居るが、理由が有る無いにしろ中学もろくに出て無くてもキッチリ真面目に社会生活を送って居る人も沢山居る。
生まれや育った環境、学歴なんてやっぱり関係無いし私利私欲を満たす為に簡単に殺人を犯す様な鬼畜はやはり鬼畜でしか無いんだと思います。

投稿: MT | 2012年11月 6日 (火) 05時34分

生い立ちは確かに同情出来るが、だから犯罪を犯す人間になったとは思えない。

投稿: | 2012年11月 5日 (月) 23時34分

子供は親を選べないし不幸な生い立ちを気の毒には思うが、小田島以上に不幸な生い立ちながら立派に生きてる人はたくさんいるし、普通の家庭、ないし裕福な家庭に育ちながらも凶悪犯になる輩もいる。結局のところはやはり本人の残酷な性質がこのような事件に走らせたのではと思う。

投稿: わ | 2012年11月 4日 (日) 07時16分

小田島さんが犯罪に走ってしまった主因は不幸な生い立ちがあるように思います。
もし、暖かな家庭で育っていたら、違った人生があったのではないでしょうか。
犯罪が起きた場合、犯罪の社会的原因を第一に検討すべきです。
「不幸な生い立ちでも立派に成人している人がいる」「社会のせいにするな」「他人のせいにするな」「甘えるな」「自己責任だ、自助だ」などと強者の論理ばかり叫んでいても何だ解決にはならないと思います。

投稿: | 2012年11月 3日 (土) 21時41分

犯罪でお金稼ぎしなくても、小田島は頭が良かったんだから、仕事して金儲け出来る人生歩めたはずなのに。。。

投稿: | 2012年11月 2日 (金) 23時18分

ここに死刑囚をやたらと庇う死刑反対派はアラシだ。


ただみんなを不快にさせて面白がってバカな事をほざくだけ。


その証拠に今まで誰一人として私と対話しようとする者はいなかった。

真面目に死刑反対で私に文句があるのなら直接会って話を聞いてもいいですよ。

投稿: 巌鉄 | 2012年11月 2日 (金) 15時03分

120人中・五番目なんてかなり優秀だったんですね。小田島の母親がちゃんとした人なら、理髪店の女将さんのお父さんがいうように、大物になっていたかもしれませんね。もったいない! それにしても、今も子供を道連れに自殺するような親がいるみたいだが、子供の人生までくずすなといいたい!

投稿: N | 2012年11月 1日 (木) 23時56分

小田島はかわいそうな生い立ちなんですね。 犯罪をおかす人間は幼少期恵まれてなかった人がおおいいと思います。

投稿: | 2012年10月31日 (水) 23時00分

前略、斎藤先生。以前、先生と小田島の最初の出会いはご自身の面会レポートでも報告されてましたよね。今回はここまで事細かに書かれた内容で改めて小田島の生い立ちを知る事が出来ました、私は北海道在住です。今年の丁度夏に差し掛かろうとしていた7月中旬頃、私用があり紋別まで行きました。道中、小田島が幼少期を過ごした滝の上も通過しました。さくら祭りは終わった後でしたが、それでも山合いの芝桜は部分的に色づいており、町そのものは静かな風情をかもし出していました。言うならばのどかな田舎という佇まいです。人間には物事を見て、聴いて、記憶する働きがあり、たとえ幼い頃の事柄だとしても逆に鮮明に甦る事があるのかも知れません。何れにしても小田島自身、確定囚となってしまった現在。身を持って償う形になりましたが、誰かがお願いした訳でもなく自身で歩んで来た人生がこのような結果にたどり着いたのだと記事を読んで感じました。以前、とある別の死刑囚が「こっち側の人間(死刑囚)になってはいけない、踏みとどまって欲しい。自分にはそれが出来なかった」とコメントしていました。一般社会において本当に辛く苦しい日々を過ごされている方も沢山いらっしゃいます。しかしながらどちらに傾くのかはあくまで「自分」の判断なのだと思いました。どんな時にでも人間としての自由を奪われてしまったら終わりです、今回の先生の記事は考え深い物がありました。

投稿: ネクスト | 2012年10月30日 (火) 10時17分

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